“ダブルケア”という言葉を聞いたことがあるでしょうか。厚生労働省によると「晩婚化・晩産化等を背景に、育児期にある者(世帯)が、親の介護も同時に担う」こととなっています。また、平成28年度の調査では日本国内で約25万人いるという報告(※)もありました。
私がこの言葉を知ったのも、実際に自分自身がその立場になってから。子どもが小学校に入学した頃から、20分ほど離れた実家に住んでいる母親の介護が始まりました。
母の介護と育児-ダブルケアの日々 vol1 – ダブルケアがもたらす「罪悪感」とは
病名がつかない身体の不調を訴える母
子どもの入学式後の週末に久しぶりに実家を訪ねました。
母は多少やつれて見えたものの、外見的にはそんな具合が悪いようには感じませんでした。本人は「足が重だるい、暑くないのに汗が出る、下半身の違和感が常にあって、トイレットペーパーを1日で1ロール使い切ってしまう」など、日常生活に支障が出るほどの異変があると、身体の不調を訴えていました。
しかし、泌尿器科を受診しても、膀胱炎は完治しておりそれ以外の病気は認められないと言われたようです。しかし、セカンドオピニオンを求めて別の病院に母と行った父から、「心療内科の受診を勧められた」と聞かされたとき、初めて事態の深刻さに気付きました。
フルタイムで働きながら、卒園・入学、マンションの水漏れ事件などの対応で私が忙しい毎日を過ごすなか、時折電話で話す母親が切々と訴える身体の不調に、「どうしてもっと真剣に向き合ってこなかったんだろう」と悔やみました。
さっそく、ネットで心療内科を調べ、有給休暇を使って母といっしょに受診しました。しかし、ここでもこれといった病名はつかず、下半身の不快感、尿意がないのに何度もトイレに行く状況を改善するような漢方薬が処方されたのみでした。
診断が付かない状況にあきらめの心境
そこから母と私のドクターショッピングが始まりました。
先の病院とは別の泌尿器科、心療内科、鍼灸医、漢方外来……。ネットで調べたり、医療関係者の知人に尋ねたり、加入している生命保険会社のヘルプデスクに電話したり、とにかく母の身体的不調の原因が何なのかを知りたくて、解決策を求めて行脚しました。しかし、細く血管が浮きでた母の腕に何度も採血の注射針が刺されても、これといった診断は下ることはありませんでした。今振り返っても、この時期は辛い時間でした。
しかし、病名がつかなくても不調はどんどん進行していき、母の日常生活はいよいよ支障をきたすようになっていました。あんなに料理好きな人だったのに、野菜を洗って切って、煮たり焼いたり炒めたり、という手順がわからなくなる、身体が「いがいが」して包丁を握れない、といって台所に立てなくなる、洗濯物がたためなくなる……。次第に家事の担い手が母親から父親に移るようになっていきました。
仕事の昼休みや休憩時間に電話をかけると「自信がないのよ」と電話口で泣き言を繰り返すようになりました。それでも母親がしきりと訴える不調は「母にしかわからないもの」で、病名はつかず、薬も効かない状態に、何か心因性のものなのかもしれない、と半ばあきらめに近い心境でした。
小学校はストレス社会?
一方、子どもが小学校に入学したことで、私はもう一つの障壁、いわゆる「小1の壁」にもぶつかっていました。保育園では延長保育を利用すれば朝から夜7時半までは安心安全な環境で預かってもらえました。しかも昼食、おやつ、補助食とすべて手作りの食事付きです。
それが小学校入学と共に入った公立の学童では、給食がない日にはお弁当持参、おやつは市販の駄菓子!に変わったのです。
そして、小学1年生はすぐに給食が始まらない⁉︎ 「慣らし保育」のように、学校に滞在する時間が少しずつ長くなるようになっているので、入学した4月は学校に行ったと思うとすぐに帰ってくるのです。共働きの我が家では、子どもは学校から学童に直行することになります。そこでお弁当を食べ、おやつを食べるのですが、保育園より在籍人数が多いうえに職員の数が少ない学童では、小学校1年生から4年生までの男女が決して広くはない児童館に詰め込まれているため、トラブルも絶えませんでした。お友達も初めて。環境は激変。学校では授業中に座って先生の話を聞かないといけない。子どもも「初体験」の連続で、日々ストレスを抱えていて、毎日早く帰宅したがりました。
慣れない環境に不機嫌な子どもと戦う日々
保育園のときは、私も9時に出社して18時、ときには19時くらいまで会社できっちりと働けていたのが、18時近くになるとソワソワと退社せざるを得なくなり、帰宅すれば、子どもは「お腹すいた!」「もっと早くご飯食べたい!」と訴えてきます。
なんとか急いで夕食を食べさせると、今度は宿題が待っています。慣れない環境で疲れと眠気で機嫌が悪い子どもは、激しく泣いたり、暴れたり……。正に小1の壁! 保育園入園時に、何度も何度も熱を出して2日連続して仕事に行ける日が数えるほどだった頃もつらかったけれど、小学校入学時の日々もつらいものでした。
なんとか翌日の科目を整えてランドセルの準備をさせて、子どもが寝付いた後はどっと疲れが押し寄せてきました。しかし、それが終わったら今度は母親の病気についてネットで病院を検索する日々でした。
父が再び入院。とうとう名前が付いた母親の不調
そんなある日、また父が倒れました。前回患った一過性脳虚血発作の再来でした。今回は血管にステントを入れる手術を行うことになりました。忙しい日々にまた災難! 私自身の高齢出産を悔みました。しかし、父親の入院時に初めて、母親の不調に病名が付くきっかけが訪れたのです。
入院手続き時、書類に名前を書く母の手元を見ていた医師が「文字がどんどん小さくなっていますね。手も多少震えているようですし、パーキンソン病じゃないですか」と検査受診を勧めてくれたのです。父が入院している病院で改めて検査を受けたことで、晴れて母親は国が指定する難病「パーキンソン病」患者となったのでした。
ホッとする一方、「難病」という意外にも重い病気に、私も母も愕然としていました。特に母は、不調を訴え始めてから1年以上経ってやっとついた病名を、なかなか受け入れられず、病気と向き合うことができないようでした。しかし、本人の意向は無視してドーパミンの投薬治療が始まりました。パーキンソン病の診断をした医師からは「毎日8000~1万歩は歩くように、薬は1種類のみ」ときっぱり言い渡されました。
薬を飲んだらこれまでの体調不良がきれいになくなるかと思いきや、母親の下半身の違和感や足の重さなど、不調に変化はありませんでした。それに加えて、「薬の副作用だ」と本人が言い張るふらつき、胃腸の不調の訴えが増えてくる始末でした。
■著者の体験による個人の考えを記事にしています。
Takako Maruyama作家と書籍の広報PRの仕事をしています。40歳で出産し、小学校に通う子どもが一人います。パーキンソン病で要介護4の母、80歳になる父を週末介護しています。